女性エンジニア応援アドベントカレンダーがあったので、純粋に応援のために書いてみます。
- 幼少期
- 保育園〜小学生の頃
- 中学生の頃
- 高校生活
- 大学生活
- エンジニアになるまで
- エンジニアになるまでの支え
- 最初のSI経験が今でも活かされている
- ターニングポイントは仮想化
- 外資系に挑戦したきっかけ
- まとめ
幼少期
熊本で三姉妹の長女として生まれました。
名前の由来を訊かれるんですが、私の名付けをしてくれたのは、両親でも祖父母でもなく、顔も知らないお寺の住職さんが命名したそうです。
父は単身赴任で2年ほど東京暮らしの時期があり、母は第二子の出産ありで、実質私の事は母方の祖父母が育てていました。
祖父は九州電力で働き、祖母は喫茶店オーナー、母も仕事をしているといった家族構成でした。 分筆された土地に隣接して住んでた、というのが正しいけどほぼ毎日祖母の家に居ました。 喫茶店はフェリー乗り場前に存在していてバブル崩壊後に不況の煽りを受けて店じまいされましたが、インベーダーゲームとかのゲームテーブルのある先進的な喫茶店だった記憶があります。
祖母はその頃50代で、若くて元気でした。 全員働いていることが当たり前で、両親は会社員で祖母は自営業の傍ら、自宅の畑を耕していました。祖母は着付けの師範もしていて多才でした。
父は造船所で大型船をつくる仕事をしていました。新卒から定年まで造船所で勤め上げました。(定年半年後に倒れてから、今は要介護ですが、今回の話では触れません…)
中庭でウサギ、ニワトリを飼っていて動物が大好きでした。
将来は家を出ようと考え始めた
育ててくれた祖母から 「いいかマナミ、大人になったら手に職を付けるんだ。誰かに養ってもらうなんて考えないこと。じいさんが働いている九電みたいに絶対になくならない仕事を選ぶんだよ」と5才頃から私だけに言ってました。
その頃から、将来はこの田舎を出て、独り立ちすることを視野に入れていました。
保育園〜小学生の頃
(フェリー乗り場からは対岸の長崎・多比良港がうっすら見えました)
有明海に面する小さな港町に生まれたから、祖父がよく港に連れていってくれて、フェリーに乗る旅人に大きく手を振っていたり。 小学生に上がるまでは、祖父と一緒に釣りもしていました。魚を捌いたり、基本的な料理は全て 喫茶店オーナーだった祖母が教えてくれました。
食事はほぼ毎日 魚料理。年に一回、町のイベントで 小学生限定の魚の掴み取り大会があって、誰も狙わない鰻をゲットして、新鮮な鰻の蒲焼きを食べる事が至福な小学生でした。
自然の厳しさや病院の少なさ
病院も少ないので虫歯にかからないように気を付けながら生きていこうと丁寧な歯磨き習慣を続けて、大人になった今でも虫歯になったことが無いです。
(有明海では日が沈んだらマジックアワーの世界が広がります。「日が沈んだらお家に帰る」は、この空色が目安でした。)
大昔は津波もあり、自然の危険と隣り合わせで生きていくため、町の防災意識は高かったです。私自身も早い段階で水泳を始めました。7歳の時点で200メートルぐらい泳げていました。
近くにショッピングモールはありません。10歳の頃までは基本的に屋外で遊んでいたので、脚には今でも古傷が何カ所か残っています。腕の日焼けも色素が沈着して戻らず褐色のままです。紫外線予防は大事ですね。
小学生の頃に迷い猫を拾って、ずっと育てていました。長毛種でモコモコしていて、ブラッシングが日課になっていました。その猫の子供が21歳まで生きたので、実家は猫がいる空間になりました。

いじめに遭っていた時期
きっかけは持ってる服が少なすぎてそれをネタに攻撃の対象にされたり、学校に行きたくなさすぎて、1日ズル休みした事があるんですよね。
友だちが心配して家まで来てくれて、忙しい親にも相談して「服を買って欲しいんだけど」と伝えました。 周りの優しい人に囲まれたから不登校にならずに小学校生活を送れたんだと思います。
公民館の英会話教室活用
町に造船所がある関係で英語圏の人も多く住む町だったので、公民館で英会話教室が小学生向けに週1回 あったんです。 無料だったからこそ、英会話も学べました。
公民館や図書館など、自治体の公共施設があったからこそ、地方でも豊かな生活がおくれました。
家族と過ごした時間
両親と過ごした時間はあまり記憶に残ってなくて。 父は夜勤もあったり、休日は疲れて子育ての参加は無かったです。母は7歳下の末妹の持病で、終業後も育児に付きっきりでした。末妹とは歳が離れている事もあって一緒に遊んだ記憶がないです。 2歳下の妹は とても賢くて、自分の置かれている状況をよく分かっていて、色々諦めていた事もあったのかと思います。
それから祖父が私が7歳の頃に癌で他界してから、祖母が私のことを育ててくれていました。 小学生に上がってからは、従兄弟や近所の友だちとワイワイ集まってみんなで遊んでいました。 三姉妹でしたが、同じ地域に女子が少なくて、男児に混ざって遊んでいました。
学童保育という仕組みが存在しなかったので従兄弟たちと毎日遊んで、本当のきょうだいみたいに育ちました。末妹の持病が重い事もあって家族旅行は1度しか行った記憶がないけど、その代わり親戚に混ぜてもらって一緒にキャンプに行っていました。 従兄弟たちとは、夏休みに多良木町の農村宿泊で五右衛門風呂に入ったり川魚を釣って過ごしたり、菊池川で沢ガニを捕まえていました。 釣りやキャンプで多くのことを学びました。
高学年になってからは自転車に乗れる許可が下りて行動範囲が広がりました。 気の合う女友だちと知り合えた事に恵まれていました。
ゲームとの出会い
友だちの家で「いただきストリート」というスーファミゲームに相当ハマりました。その頃はゲームに夢中でした。
通信ケーブルで友だちとポケモン交換できるポケモン赤にも、もれなく夢中になっていました。
流行のショッピングモールに行くには山を二つ越えないと辿り着けないので、とにかく地方暮らしから抜け出したいとばかり感じていました。
中学生の頃
中学から制服になって 洋服が少なくてイジメに遭う事はなくなりました。
文化系だと勘違いして入部した吹奏楽部
母親の強い希望で4歳の頃からピアノを習っていたから、吹奏楽部に入ってみないか?と誘われて、とりあえず入部。 そうすると、体育会系みたいな筋トレとランニングでしごかれ、ゲームに夢中で体力低下気味だった自分が、部活のトレーニングで鍛えられる。 カテゴリーは文化系なのにイメージと違ったんですが、3年間辞めずに続けました。
社会人生活よりも中学の部活の方がキツいので、よく思い出します。仕事でトラブルが起きても「いま困難な状況は部活よりもマシ。全然いける」とポジティブになれました。 吹奏楽だけではなくて夏場はマーチングもあるからハードだったんです。
中学生活を通して、どんな困難な状況でも、上達のために試行錯誤してやり遂げる力が身に付きました。
公民館で英会話を練習していたので、英語スピーチの県大会に運良く進めて、そこでネイティブレベルで話せる中学生を見て「これが同じ日本なのか…!」という謎の衝撃を受けたのを覚えています。
新しい図書館ができて小さな楽しみができた
本が買えなくても図書館をフル活用して、コバルト文庫をよく読んでファンタジー世界に夢中になりました。
中学に入ってから、小さな町なのに多額の税金を投入して、コンサートホール併設もある贅を尽くした図書館が爆誕し、所蔵数も多く インターネットPC体験コーナーもあって、文化的な生活でQoLが上がりました。
PC教室とコンピューターミュージックとの出会いでITの道へ
なんか色々しんどいなって思うことがあっても、ピアノを弾いたり、図書館で借りた好きな小説を読めばコロッと嫌な事は忘れる「自分の機嫌は自分で取るタイプ」でした。
ピアノの上達は人より遅かったし全然 才能無いのは自覚しつつ、ショパンを弾ける位に上達しました。
吹奏楽やピアノでの楽譜の読み込みで、記憶の定着力を鍛えた事で、大人になってから要件のヒアリング力の基礎に繋がりました。
ここでPC教室でコンピューターミュージックに出会い、四和音の楽譜を演奏させていました。中学のPCが入れ替えまでPC98だったのですが、最後はWindows 95に入れ替わって相当進歩したのを覚えています。
PCを買える程の経済的余裕が無いことは知っていたので、PCの演習室がある高校に進学を決意します。
高校生活
高校は専門高校に入りました。自宅にPCがなかったので演習室を借りてPCを使ってエンジョイするはずが、やっていたのはCOBOLでした。
プログラミング言語とSQL文は紙に書くのと演習室での実習で学びました。
そして徹底的に簿記を学びました。 15分以内にExcelを完成させるといった謎スキルが向上。当時の学校PCはPC98でしたがすぐに入れ替えがあり、Windows NT4.0とWindows 98になっていました。
地方公務員、地銀や農協への就職を母は望んでいましたが、就職しませんでした。
職業選択の壁と進学
三姉妹で父の家系の跡継ぎだから、高卒で働いた後、 相手が見付からなかったら婿を見付けるためにお見合いしてほしいと告げられて、とてもショックを受けたのを覚えています。
父方は先祖代々続いてるから、家系を絶やすことはできないと。私の名付けが住職だった背景をようやく察してしまいました。
親は悪気があって言っている訳じゃなくて、「お見合い」の感覚が当たり前なんだなーと最近は感じています。 親との価値観の隔たりが大きくても、きっと親として空回りしながらも我が子を大切にしたかったんだと今では感じています。
女性活躍のフォーラムに参加
高3で就職活動せずに悩んでいたら、女性の社会進出に関する予選があると聞いて、ただ英語ディスカッションの地方予選から選出されないと進めない事を知りましたが、失敗しても失う物がないので予選に出て、奇跡的に代表に選ばれました。
でも、英語力が足りなくて、当時審査員をされたイギリス出身の英語講師のマダムが毎晩電話をかけてディスカッションのための英会話に付き合ってくれました。
宮崎で九州フォーラムがあって、周りは帰国子女か留学経験者のある人々に囲まれて、今で言う経験格差を感じて挫折を体感しました。もちろん、みんな素敵な方々でした。
でも、その挫折と貴重な経験があったからこそ、大学進学して学びたい、と思えるようになりました。
大学生活
親から大学進学の許可をもらいました。 「最寄りじゃないと進学を許可しない」と条件が付いていたので最寄りの電気情報学科に進みました。 「手に職を付けること」という祖母の助言も大きかったです。 最寄りといっても大学は遠く、電車での移動は大変なので、通学のため運転免許も取りました。
大学ではPC購入が必須のため、高校卒業のタイミングでWindows 2000 PCを購入してもらえました。この時にメーラーとしてPostPetを飼い始めました。
女子学生は同じ学科(100人程度)に私だけしか居ませんでしたが、幼少期に男児ばかりの環境で育ってきたので、4年間はそこまで苦じゃなかったです。
ですが「女だからズルしてるんじゃないの?」と誰かに変な噂をされてから レポート提出を一番乗りにして提出し続けていたら、周りは黙りました。真っ先に提出できるから、ズルしようが無いですからね。 結果と実力で証明するしかなかったんですよね。
大学4年の頃はエネルギーエレクトロニクス研究としてスパッタ薄膜の研究をしていました。 半田付けがとにかく苦手で、半田付けのない研究所を選びました。
ボランティア経験があって教員免許を取った
町に造船所子会社の社長さんが住んでいて、母経由の相談で「家のPCの調子が悪い」と相談を受け、スピーカーのドライバを入れ直していたら町中で評判が伝わりました。
さらに町の中でWindows のお困り相談や Excel 相談を受けて、空いている時間に教えていました。
PCの飲み込みが早い主婦の方がいて、町で臨時職員として雇用されることになったよ、と報告を受けました。その方は 専業主婦をされていて お子さんが大学生になって落ち着いたからPCを学びたい、といった要望でした。その方は当時40代後半でした。
「挑戦に年齢の壁なんて関係ない」事をこの時に理解できたし、私の持っていた知識が誰かの職業選択のきっかけにもなれた事は、かけがえのない経験でした。
Windows XPの普及とデジカメブームもあり、ご近所の奥様にフォトショップの使い方も教えて会報誌の綺麗な作り方を教えていました。 知らない内に人のお役に立てることが増えて成功体験に繋がりました。
祖母に育てられた経験で、分かりやすく伝えるにはどうすればいいか常に考えるようになっていました。
誰かに教える事が楽しくて、大学4年時に母校の専門高校で教育実習をして情報処理の第一種教員免許を取りました。
Linuxとの出会い
大学生活の中で、Linuxと出会って人生が切り拓かれました。 自分でサーバーを立てる事が楽しくて、夢中になりました。 Red Hat Linux、後のFedora Core、Fedoraと出会いました。
両親とはあまりうまくいってなくて、「心配だから九州から出ないで」と何度もお願いされましたが、自立して家を出るしか自由はないと思って、上京することに。 これまで苦労して育ててくれた事にはとても感謝しています。でも考え方や価値観が違っていて、一緒に暮らすことが息苦しかったのです。
九州・四国一周
故郷に未練がないように、愛車で九州道の駅(奄美除く)の当時85箇所を大学生活を通して制覇しました。
道の駅スタンプを集めて、制覇表彰状をもらったことで、九州の各地域の事を詳しく知っていて、社会人になってからも役立っています。
大学卒業前に、大分から四国までフェリーで行って四国一周したことも良い経験になりました。

(愛車に乗って道後温泉まで行きました)

(金比羅宮からの夕景が美しかった)
現在、この「旅をした」経験は大きく、国内出張だったら全国どこでもフットワーク軽く行ける自信があります。西日本のお客さんからは「大阪支社の在籍なんですね」とよく言われます。(東京に住んでいます)
エンジニアになるまで
熊本の大学を卒業後、両親の反対を押し切って上京し、第二新卒で独立系SIerのITエンジニアになりました。
祖母には打ち明けました。 すると「一度きりの人生だけん、やってみんしゃい。おっどんは応援しとるけん。いつでも帰ってきてよかけんね!」と背中を押してくれました。
母も、博多行きの特急つばめに乗った私を見て、ずっと手を振ってくれて目頭が熱くなったのを覚えています。
エンジニアになるためのバイト時代
上京するため、旅館やマックでバイトしました。 スマイルが無料だった頃です。旅館受付もしてましたが、生け花が下手すぎてよく女将に怒られていてスマイルが売り切れていました。 旅館は造船所の近くで英語圏の宿泊者も多く泊まっていたので、仕事で英語を使う機会にも恵まれました。
一番苦しかった頃の話
上京してからも、昼間は就職活動、夜は渋谷の居酒屋でバイトといった苦しい生活をしていました。
就職が決まるまでは、この生活がいつまで続くか胃がキリキリしていました。バイトで「よろこんで!」と挨拶すると嫌なことも忘れましたし、常連さん達が就活を応援してくれました。賄いご飯が美味しくて、板前さん達も優しかったしアットホームな場所でした。
私の就職活動は半年間で落ち着き、私は23歳になっていました。
SIer に仕事が決まったきっかけは、転職支援コンサルの方の力を借りて面接練習をしたからです。今考えると、ほぼ儲けなんてなかったかもしれないのに、「私と下の名前が同じだから」と励まして下さったことは一生忘れません。
もし、ここで入社できなかったら…諦めてしまったら…間違いなく違う人生を歩んでいたと思います。
着物講師の免許を取ったきっかけ
地元バイト時代に 「あなたのお祖母ちゃんは 三味線、生け花、着付け 何でもできるのに、あなたは一芸も持っていないよね」とグサグサくる事を言われて悔しすぎたんで、社会人になってから夜間に着物学院へ通い、今は着付け講師の免許を持っています。
25歳の頃に着物講師の免許を取りました。
乳児の頃から育ててくれた祖母の評判を落とすわけにもいかなかったし、加齢により年々と腰が曲がっていく祖母の代わりに親戚で着付けができる人も必要だったので、私が着物一式を引き継いで管理しています。
都会という煌びやかな幻想というギャップ
上京したら気軽に魚釣りもできないし、庭の農園もないから収穫もできないし果樹園もない。精米機にかけるサイズ感の米も売ってない。
都会は便利だと思っていたのに、なんという事でしょう、生活コストが思った以上に掛かっている。 想像上の都会と現実のギャップを知ることになります。これはテレビや雑誌などのメディアから受けた情報だけを鵜呑みにしていて、東京という煌びやかな幻想を追い求めているのかも…といった気付きもありました。
上京3年後にPerfumeの「ワンルームディスコ」という歌をラジオで聴いて、なんか自分みたいだなって。 そういった現実を受け止めながらも、東京で生き残る道を選びました。
エンジニアになるまでの支え
エンジニアになってからの人生は、これまでのブログエントリーの通りなんですが、心の支えになっているものがあります。
それは NARUTO です。
NARUTOのセリフ が心の支え
「自分の人生は自ら切り拓くもの」
中忍試験の中で、私が涙腺崩壊したシーンです。 この台詞を脳裏に焼き付けて諦めませんでした。 諦めたら田舎に帰るしか道はなくて、だから這い上がってみせるしかなかったんです。
生きるための信念は少年ジャンプから学びました。
そして逆境を生き抜く力があったから、逞しく生き残れたのだと思います。
「資格は無意味だ」と誰かに批判されたとき
業務の傍ら、20代の頃はとにかくIT資格を取りました。 しかし、よく思われない事もありました。 「資格なんて取っても意味ないだろ」 と批判されることもありました。 (もちろん業務はしっかりしていた上で、ですよ)
NARUTOのカカシ先生の「忍者は裏の裏を読め」という台詞は、都会暮らしで生きていくことに必要でした。 要するに、私が資格を取ることで都合が悪くなる人が居るんです。
地方暮らしではお互い助け合いながら暮らしていたので、そういった心の闇を抱えている人とは心の距離を置いて、最終的には私自身が転職することで関わることのない人になりました。 資格を取り続けて、自分自身としては後悔していないです。むしろ自信に繋がっています。
最初のSI経験が今でも活かされている
学生時代にLinux経験があったことで、最初に入ったSIerではSolarisやHP-UX、FreeBSD、RHELを扱うインフラエンジニアになりました。ログ解析やCSIRTチームでセキュリティにも携わりました。 大規模なECサイトの運用を担当したり、公益機関の保守などを5年弱していました。
最初に入ったSIerで、上流から下流まで一通りの構築運用経験は、現在もなお役立っています。 現職でSIパートナーと協業をする上で 最も必要な経験になりました。 地味な経験だと思われがちですが、現場の最前線を経験できて本当に良かったと思っています。
ターニングポイントは仮想化
その後、サーバー仮想化が当たり前の世の中になっていくことが確定路線だったことがわかって、XenとKVMの本を読みました。 技術的にわからない箇所があったから、著者に直接質問してみることに。 それが夫との出会いでした。
もう一つのターニングポイントは結婚
もう一つのターニングポイントは結婚です。 私は着物が趣味なので、この事を打ち明けたら交際はお断りされるだろうと思いましたが、誠実な人だからこそ着物があることを正直に話しました。それどころか否定されず、むしろ「僕の祖母も着物が好きで…」と肯定してくれた。 長年のストレスで子宮疾患を抱えていて子どもが産めるかも保証できないのに、それでも一緒に居たいと言ってくれた。 この人しかいないな、と思ってスピード結婚することに。
きっと両親は反対すると思ってましたが喜んでいました。夫の優しい人柄に安心したようです。 夫は北海道から上京してきたので、境遇が似ていて話が合って、付き合った期間は短かったけど夫婦生活も15年目です。 結婚式は親族だけで、札幌で小さく挙げました。
子育てしながら仕事する事に理解がある夫がいるから、いまこうやって仕事を続けられています。 夫の両親は既に他界していて、私も実家が遠方なのでお互いの両親の支援無しで子育てする前提です。
外資系に挑戦したきっかけ
子供3人に恵まれてエンジニアを続けていました。 仕事と子育ての両立のため、データセンター作業のない、クラウドエンジニアにシフトしていました。 前職は金融系のスタートアップに4年弱在籍しました。 最初のデータ分析基盤プロジェクトで現役データサイエンティストに刺激を受けてAIを独学で学びました。
きっかけは、AIが浸透していく未来しか見えなくて「このままだとマズい」と危機感を覚えたからです。
AI が3度目のターニングポイント
独学でAIを学び、結果的にデータサイエンティストが話している内容の理解ができて解像度が上がったんです。
そのとき「これからはAI活用とセキュリティ推進だ」と確信。 これが3度目のターニングポイントで、4年前に教育機関のDX推進に興味があって、転職を決意しました。
現職では教育・公共機関にAIとクラウド利活用のためのスペシャリストを担当していて、気付けば入社して約4年になります。
足りないものは社会人になってからの努力でカバーする
現職に応募する勇気は要りました。 皆さんお気付きかと思いますが 「こんな子供時代を過ごした私が通るんだろうか」と悩みました。
私は特殊なバックグランドです。無名大学の出身で両親は高卒です。留学経験もありません。 でも努力だけは人一倍重ねました。
「親ガチャ」とか、「経験格差」とか、そういった言葉だけが一人歩きして最初から諦めるようにメディアが印象操作していないか本当に疑問に思っています。 誰かのせいにすると成長しないから。
私自身も周りが輝かしいバックグランドで自信なんてなかったけど、NARUTO を読み返して、もう一度 目標にチャレンジしてみようと思えたからです。
まとめ
この世に生を受けてから義務教育卒業までの15年間を振り返ると、私は行政の教育支援と公共施設などをフル活用して成長していました。 そして、自分がこの仕事に就けたのは、沢山の人の支えもあったからこそです。
後世のためにできるのは、来るべきAI時代にAIを正しく活用できる仕組み作りから。 教育に携わる方々の働き方改革に繋がるようにするには、自分がそのような立場になるしかないと覚悟を決めました。
地方で育ってきたからこそ、未来の子供たちの選択肢を広げたい。やり遂げたいことがあるんです。
大事なのは「今」やるべき行動です。そして、将来どんな未来を描いて突き進んでいきたいのか、明確になっている事が重要です。
未来の自分に手紙を書いてほしい
自己肯定感が低かった自分を変えたくて、20代の私は10年後、またその10年後の自分宛に手紙を書きました。その手紙を自宅の引き出しにしまって、たまに読み返します。
箇条書きで3つだけ書きましたが全て実現できました。 無意識の内に、10年後のマイルストーンに向けて行動していくようになりました。
自分の人生です。
まずは、勇気を出して踏み出すこと。 皆さんのチャレンジを応援します。
女性エンジニア応援 2025 Advent Calendar 2025 https://qiita.com/advent-calendar/2025/engineer